2010年11月7日日曜日

バーベキューという名の格差

 ヤンキー志向の若者は、むしろ盛り場を好んだ。池袋、新宿、渋谷あるいは西麻布か六本木。地元の駅前でくすぶってるヤツは負け組、問題外だ。よしんば都会に倦んだのだとしても、そこいらへんの川原や公園には引っ込まない。むしろ遠征をする。それが男の甲斐性ってヤツだ。当然、湘南を制圧し、九十九里浜に向けて車列を並べ、あるいは峠道を攻めるべく十国峠や箱根ターンパイクに向かう。間違っても近所の河川敷なんかには集まらない。そういうことをするのは中学生まで。ガキじゃあるまいし、誰が地元の川っぺりなんかでツルんでうれ
しいんだ?

 ところが、21世紀の若者は近所の川原に集まる。
 どういうことだ?
 キミらは、恥ずかしくないのか。

 恥ずかしいとか誇らしいとか、そういう問題ではない。
 たぶん、単にカネが無いのだ。
 彼らには、クルマを買うカネも、ガソリンを入れるカネも無い。盛り場に繰り出すための最低限のジャラ銭さえ無い。だから川に集まるのだ。赤とんぼみたいに。
 不良のくせに見栄ぐらい張らないでどうする、というご意見はもちろんある。
 が、無駄な見栄は節約しないとやっていけない。昨今の不良は世知辛いのだ。

 若い人たちについて書かれた文章には、「○○離れ」という描写がいつもついて回っている。曰く、若年層のクルマ離れ、若者の海外旅行離れ、大学生の活字離れ、二十代のビール離れetc.…。たしかに、彼らは、携帯電話関連以外のあらゆる消費アイテムから遠ざかっているように見える。
 かくして、小利口なマーケッターが、何か新しいデータを見つける度に、次々と新しい名称を発明開陳する。そうやって、若い連中の消費行動を観察して、特徴を分析すれば、新しいマーケットが発見できるはずだってな調子で。○○夫婦とか。○○需要とか。大喜利のお題でも考えるみたいに。全く。バカにした話だ。

 本当の主題がマーケットの縮小それ自体であることは、本当は誰もが知っている。
 「○○離れ」と言われているものの正体は、要するに相対的な貧窮化のことで、煎じ詰めれば可処分所得を多く持たない若者が増えているということ以上でも以下でもないのだ。とすれば、新しいマーケットなんて生まれるはずもないではないか。債務整理みたいな葬儀需要は別にして。

 若者の貧乏には未来がない。これはとてもキツいことだ。
 私が若い者だった時代も、貧乏は若い人間にとっての既定値だった。この点は、現在と変わらない。
 でも、われわれは未来を信じていた。だから、現状の貧困は問題にならなかった。
 初期設定がゼロで貧乏が出発点だということは、未来が豊かであることの裏返しで、つまり、心配はご無用の前途は洋々なのだと、そういう筋道でわれわれはものごとを考えていた。

 であるから、われらバブルの申し子たちは、より豊かな明日の到来をテンから確信し、それゆえ、貯金が無いことを気に病むこともせず、今月の収入のすべてをきれいに使い切って、あまつさえ図々しくローンまで組むことができた。錯覚であれ脳天気の結果であれ、とにかく20世紀の若者は、未来を信頼し、クルマを買い、海外旅行に出かけ、全集を予約し、借金の担保のために借金の証文を作っていた。で、その若いオレらの無思慮な消費行動が経済をドライブし、市場を回転させ、企業を潤わせていた。奇跡だ。社会の全員で回す壮大なねずみ車。

 今の若い人たちに同じことをやれと言っても無理だ。
 時代が違う。
 彼らが暮らしているのは、借金がインフレで棒引きになる時代ではない。収入が右肩上がりで伸びていくことが前提になっている社会でもない。正社員がクビにならない保障もないし、それ以前に、上場企業は若い人々を正社員として雇用したがらなくなっている。とすれば、誰が未来を信頼できる?

 どこかの統計で出ていたが、20代の失業率は、中高年のそれがなんとか横ばいで推移しているのと比べて、驚くべき角度で上昇し続けている。改善の気配も無い。
 とすれば、やんちゃな若いヤツが地元の川原でクサクサしているのも致し方のない話ではないか。

日経ビジネスオンライン
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